【対談5】命をいただくことに向き合う

スタッフ
 栽培するときもそうだと思いますが、人がどう行動するにせよ、人間の意識って本当に大事だと思います。例えば、西洋と東洋ってアンバランスじゃないですか、日本は東洋思想のはずなのに西洋のほうが全体のバランスを効率よく考える部分があったりとか、東洋思想なのに日本ではあまりよく循環していないですよね。3分の1食糧を廃棄したりして。
白井氏
 植物を育てるということは、強いていえば生命のコントロールです。昔、淺田さんとも話した話で、仲良い仲間で子豚を買いましょうと。きれいにして、育ててあげて、3年後に大きくなったら解体してみんなで食べましょうと。トンカツ定食を食べに行くことと同じですよね。自分では無理だけれども、どこかの誰かがやってくれている。この落としどころのないエゴさというか。
スタッフ
 自分の手は汚したくないけれども、でも美味しいものを食べたいという。見て見ぬふりをするというのがあるんですね。偉いのは農家の人たち。向き合わないといけないので。
白井氏
 まさに精肉という状態になって、われわれは何事もなかったように食べて残すわけですよね。考えていけばいくほど深みが出てきて、しかも方法論が見つかっていかないみたいな。
スタッフ
 方法はないでしょうね。例えばゴミ問題も、ゴミという意識自体がもう人間のエゴだという話。後、自然界から学ぶとしたら、NHKの動物の番組。それを見ていると必要最小限というルールが自然界には確立している。それを大きく逸脱しているという感じですよね。なにもかも。
白井氏
 そうですよね。一方で難しいのが、文化というものと人間というものを考え出した場合に、必要な分だけ収穫して、食べる分だけ食べると。しかも残さない。分け合って食べるという動物の過程みたいなものを人間がとった場合立ち行かない。経済に伴う食文化という話になって、どういうふうに見せるのか、味付けをどうするのかということになる。きれいに断面をとるために里芋の半分ぐらいを切り取ってしまう食文化もあります。そうなってくると文化みたいなものが出てきて、昇華されたものほど美しいし、わびさびだという話になってくる。さらに迷宮入りしていって、何を訴えたいのか分からないみたいな。どこに解決方法があるのか。永遠に続く話なんですよね。

スタッフ
 さっきの豚の話も同じで、殺すところは立会いたくないけれども、豚カツは食べますよねという問いかけですよね。だから問いかけるしかないですよね。ゴミ問題もそうですよね。こうなっていますがどうしますか。答えはあなた次第ですと。
白井氏
 豚の場合はまだいいというか、馬や牛になったらもっと激しいですよね。馬肉を食べるとかいう話に。いい馬を持ってきたぞ、後は任せたぞと言われてもさばけないですよね。
スタッフ
 それは人間のエゴで、魚とか下等になればなるほどモノ扱いしたりするから。言われた後で、そういえば食べる前に感謝だとか、知識はあるけれども実際やっているかといったらどうかと。
白井氏
 感謝ができないんじゃなくて、感謝をするということに気がまるでいかない。冒頭に申し上げたみたいに、今日は白いご飯と味噌汁と生卵でいこうねと。美味しいよねというんですけれども、ご飯は座っていれば出てくるし、別にうちで食べなくてもあそこの定食屋に行ったほうがもっと美味しいという話になるわけですよ。生かされているということを認識させられるためには、農業という一次産業へまず目を向けるというのが一番最短コースで可能なことじゃないかなと思います。
スタッフ
 生きていることって何だろう、と思っちゃいますね。
白井氏
 そういう話になってくるんです。だってそうなんですよ。人間として生きていれば必ず負荷がかかります。そして、どうして人として生まれてきて、何をしているのかという回答はたぶん一生出ないんです。
スタッフ
 たしかに解は人の状態によって違いますし、追窮していくものなのでしょうね。
同時に、人間って何のために生まれてきたのかと考えたことはありますか、そういった問いかけは投げかけられますね。それでもう十分。そういえば考えたことないなと。それで考えてくれたらなと。
白井氏
 そのとおりです。
考えるきっかけのために、まず生きていること自体が環境にも負荷をかけるということをまず認識しないといけないと思うんです。生きるということは自然を含めた、多くの人たちに負荷をかけていく。だからこそ自然に対して配慮していこうとか、一次産業に対して気を配っていきましょうとか。存在自体がいいか悪いかではなくて、生きること自体が負荷をかけている。だったら自分たちは負荷をかけたことに対して、何ができるかというところが1つの解決策、回答になってくるんじゃないかなと思うんですね。そうするとある人は、河川をきれいにするために掃除をしましょうとか、さっきの畜産の話じゃありませんけれども、大量に殺して安くするんじゃなくて、値段は少し上がったっていいでしょうと。そういうふうに意識を何十年何百年かけて持っていかなければ解決方法なんか何も出てこないと思うんですね。生きている罪悪感までは必要ないと思いますけれども。
スタッフ
 その人なりの、何のために生きているかという問いですよね。価値観。親にも影響されると思うけれども。僕は今でも感銘を受けていて、調和ということでなるほどと思ったのは、とある建築家の話なんですけれども、その建築家曰く、たった1つ壁を作ること。それだけで日向と日陰ができると。そしたら今まで日向だったところが日陰になったりする。そのとき生態系が変わるのに人間は誰も責任をとらない。建築自体、すごい空間じゃないですか。あるところは土を爆発させてならすみたいな。
白井氏
 僕の言っている調和とほぼ同じようなもので、僕らは自力で生きているわけじゃないですね。例えば食べることも含めて自然環境がガラリと変わってしまったら生きていけないわけで、どうしたって生かされているわけです。生きると負荷がかかる。そのときにいかに自然環境に対して負荷をかけないように自然と調和して生きていけるかというのがとても大事なところなんですね。

りんごの栽培をやっていると面白いなと思ったのが、60~70年のふじという銘柄のりんごがあって、11月の収穫期には中にきれいに蜜が入って甘くて美味しいんです。それを子供の頃から見てきたんですけれども、その後、有機栽培をやって愕然としたんですよ。なぜかと言うと、10月頃になると葉っぱがみんな落ちてしまって、実が1つ2つ残されているような、そんなりんごの木になっているんですよ。りんごはもちろんのこと、葉っぱも全部落ちている。聞いてみたら、9月下旬ぐらいに落下防止の農薬を撒くんです。おかしいですよね。りんごはバラ科で、バラなんて11月になれば葉っぱを落として実を守る。なのにりんごだけは青々と葉が茂って、というわけなんですよ。

これってかわいそうな話だと思いません?うちのりんごの木は毎年盛大に葉っぱやりんごの実が落ちるんですよ。だいたい冷害が起こったり台風がくると真っ先に有機が落ちるねと言っていたんだけれども、台風が来てもりんごの実が落ないんですよ。なぜかというと、木はいつ実をリリースするのかって自分で決めているわけです。冷害だったら、温度を上げるわけじゃないですけれども、冷害に耐えるという、自分で生きようという能力を身に付けるわけですね。危機になればなるほど生きようという能力を身に付ける。だけれども、生かされていると、本質的能力を使った経験もないし、使い方も分からないし、農薬を撒いてくれているので。だから冷害が起こるとバラバラと落ちる。これはりんごをやってよく分かる。

田七は地下で勝手にやっているので分からない。予期せぬトラブルを避けるために地下にいた。僕が究極にやりたいのは、天然型の田七人参で。そうすると花が咲いて種が落下して、また育つという、こういうのが一番いいんですね。でもそれって経験値がまだないのと、田七の場合は、3年間やった畑から、他の畑に移るわけですね。落下した種がそのところで発芽して、そこで同じところに育った時に、自然界だったらそれでいいわけですよ。ところが中国の場合、自然環境や土壌を見るとそういうふうになっていない。ということは、ひょっとしたら問題かもしれないですね。自然循環できるような、何十年何百年、というところだけはやらなければいけないと思うんですね。ひとたびやってみようかといって今すぐできても成果を見るのは3年後ですからね。時間がかかりますよね。

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